豊臣秀吉は己の死後、その息子・
豊臣秀頼を五大老が補佐し、合議制をとることにより
徳川家康の台頭を防ごうと考えていた。将来台頭し、豊臣家と覇権を争う可能性のある徳川家康を大老として取り込んでしまうことにより、禍根を断とうとした秀吉の策であった。秀吉存命中は、秀吉の期待に沿う働きをしたが、死後は家康の度重なる盟約違反により有名無実化した。ただし、
前田利家の存命だった慶長4年(
1599年)までは、家康の専横までは防げなかったものの、家康が豊臣家より上回る権威を持つことを防ぐことはできた。
が、関ヶ原の戦いで宇喜多が改易され、前田、上杉、毛利が弱体化し、かつ秀頼に対する責任を追及しなかったことにより、家康に強大な権限が集中することを誰も止めることは出来なくなった。