14日(
21日)、この日は勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀式が執り行われる予定になっていた。しかし同日巳の刻(午前10時ごろ)、江戸城本丸御殿
松之大廊下(現在の
皇居東御苑)において吉良上野介と旗本
梶川与惣兵衛頼照が儀式の打合せをしていたところへ、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に対して
脇差による殿中刃傷に及んだ。吉良上野介は額と背中を斬られるが、側にいた旗本の
梶川与惣兵衛頼照がすぐさま浅野内匠頭を取り押さえ、また居合わせた
品川豊前守伊氏、
畠山下総守義寧ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。梶川がのちに記したところによると浅野はこの際に「この間の遺恨おぼえたるか」という叫びとともに斬りかかったという。
捕らえられた浅野は幕府
目付の
多門伝八郎重共と
近藤平八郎重興の取調べを受けたが、多門の記すところによれば、浅野内匠頭は「幕府に対する恨みは全くない。ただ吉良には私的な遺恨がある。だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」と答えている。一方、外科の第一人者である
栗崎道有によって傷口を数針縫いあわせ、軽傷ですんだ吉良上野介は、目付の
大久保権左衛門忠鎮、
久留十左衛門正清らから尋問を受けたが、「拙者は恨みを受ける覚えは無い。内匠頭の乱心であろう。またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」と主張した。将軍
徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、浅野内匠頭を即日のうちに
切腹、
赤穂浅野家の断絶を命じた。吉良上野介に対しては、殿中をはばかり手向かいしなかったことは殊勝であるとして何の咎めもなかった。