国家の祝日として表舞台に舞い戻るのは、
明治元年
9月22日(
1868年11月6日)に天長節として祝ったときである。(同年8月26日には太政官布告で「九月二十二日ハ聖上ノ御誕辰相当ニ付毎年此辰ヲ以テ群臣ニ?宴ヲ賜ヒ天長節御執行相成天下ノ刑戮被差停候偏ニ衆庶ト御慶福ヲ共ニ被遊候思召ニ候間於庶民モ一同嘉節ヲ奉祝候様被仰出候事」と布達された)。明治2年9月には各国公使を延遼館に呼び寄せ、酒饌を賜い、明治3年9月には諸官員、非職員、華族などの拝賀があって、勅任官は禁中で、奏任官以下は各官省で?宴を賜い、諸軍艦で
祝砲がうたれた。天長節の儀礼が整ったのは明治5年で、同年の天長節の勅語で
天皇誕生日と天長節は内容的にほぼ同じものであると考えて間違いはないが、天長節については実際の誕生日からこれを祝う日(祝日)を移動する場合もあった。例えば、
大正天皇は
8月31日生まれだが、残暑の厳しい時期に各種式典をこなすのが難しかったため、
1914年(大正3年)より
10月31日を天長節として祝った。同様の例はイギリスの
女王誕生日 () がある。現在では
祝日法において天皇誕生日は「天皇の誕生日を祝う」と明記されており、これが改正されない限り、実質上天皇誕生日と天皇誕生祝日の分離は困難であると思われる。
なお、現在の日本では
祝日法によって、月日に基づき天皇誕生日が定められている。そのため
皇位継承によって新天皇の誕生日が自動的に祝日となるわけではなく、前代天皇の誕生日と今上天皇の誕生日が異なる場合、国会で祝日法を改正をする必要がある。また天皇の誕生日によっては、祝日としての天皇誕生日が実際の誕生日と異なる日になる可能性もある(大正天皇がその実例であり、今後も天皇が
7月〜
9月生まれの場合は、暑さの厳しい時期に各種式典が重なるのを防ぐために、祝日が数週間〜数カ月移動する可能性がある。)。