1950年、
読売新聞社、
中部日本新聞社、
西日本新聞社の三社が主催する第1回
ミス日本(700人近い応募者があった)の栄冠に輝く。その類い稀な美貌は審査員達の間でも話題の的で、ミス日本選定は満場一致で短時間で終了したという逸話が残っている。この第1回ミス日本コンテストは終戦から間もない当時の日本の明るい話題だった。審査や授賞式の模様を伝えたニュースフィルム(モノクロ)が現存している。1951年、
ミス日本として公式訪米し、
ヤンキー・スタジアムで
マリリン・モンローと
ジョー・ディマジオに会うなど、アメリカでもその美貌が話題になった。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトが相次ぐが彼女には女優になる意思はなかった。しかし、悩んだ末、姉・喜代子の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。ちなみに、その喜代子も薬剤師の仕事に就き、富士子と同じく家庭を持った後も仕事を続けた。
1953年、映画会社各社の争奪戦の末、
大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに
3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。同年、映画「
花の講道館」で
長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。
1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・
永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し
五社協定にかけると脅した。それに対し山本はフリー宣言をし、同年2月28日、
帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、永田社長に詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。それに対し永田は彼女を一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台にも出演できなくした。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。看板女優の彼女を失った大映の映画館は空席が目立つようになり、大映倒産そして日本映画界全体の斜陽化の遠因となった。この後、彼女は
テレビドラマに活路を求め、「山本富士子アワー」などに主演して好評を博した後、
舞台に新境地を開き、現在まで舞台一筋で主演を続けている。
・ 山本富士子の実家は南大阪では知られた素封家であり、富士子たち娘の花嫁道具としてうなるほどの着物を買い溜めていた。ところが
戦後、米軍用住宅として屋敷は接収、その中の家財道具としてそれらの着物も没収され、二度と戻ってこなかった。その時に落胆する両親の姿を見て、富士子は「女性も手に職を持たなければ」と実感させられたという。(参考文献 『私の履歴書』(
日本経済新聞連載))