生母が藤原の出でないため、
関白藤原頼通や弟の
教通に疎んじられたが、彼等の異母弟の
能信の支援を受けたと言われている。『
今鏡』によると、後朱雀天皇が尊仁親王を兄の親仁親王(後冷泉天皇)の
皇太弟にと考えていたのを、頼通が抑えていたのに対し、能信が強く薦めて、その遺詔により皇太弟となる事が出来たとある。しかし、頼通や教通は、後冷泉天皇の後宮に娘を入内させて外祖父として権力を握るために、尊仁親王に対して陽に陰に圧迫を加えていた。その一例として、歴代の東宮が伝領する「
壺切御剣」を頼通が「藤原氏(特に摂関家)腹の東宮の宝物」との理由で、23年もの間、親王が即位するまで献上しなかった事が、
大江匡房の談話集『
江談抄』に記されている(ただし、誤伝説もある)。ただし、後三条が即位しても
摂関家以外に外戚の要件を満たす家は存在しておらず、頼通らは後朱雀天皇の嫡男である後冷泉天皇の系統に皇位を一本化する意図であったとする考えもある。
頼通が失意のあまり引退した後、
上東門院彰子の推挙で弟の教通を関白にしたが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の
藤原能長や、村上源氏の
源師房等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や
藤原実政等の下級役人などを登用し、積極的に親政を行った。また、
源隆国のように、東宮時代の天皇を頼通に気兼ねして蔑ろにしていた者に対しても、隆国の子息の
俊明を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。
1069年延久の荘園整理令を発布して
記録荘園券契所を設置し、
1070年には絹布の制、
1072年には
延久宣旨枡や
估価法の制定等、
律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等(『
後二条師通記』に記載有り)、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらした事で、『
古事談』はこれを
延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあったために天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった。