永禄6年(
1563年)、土呂、針崎、佐崎の一向衆徒が
徳川氏に対して一揆を起こすと、忠次もこれに応じた。しかし、戸田氏はそもそも徳川氏とは縁戚関係及び主従などの関係があった為、内通を疑う者もあった。これを恨んだ忠次は200の軍勢を以って翌7年(
1564年)、徳川方に転じ、徳川家康に謁して一揆鎮圧の軍勢に加わった。その後は次第に出世して渥美郡大津(現在の
豊橋市老津町付近)に2,300石を与えられた。その後も永禄11年(
1568年)12月からの遠州侵攻にはじまり、翌年正月の
掛川城攻め、
元亀3年(
1573年)の
三方ヶ原の戦い、
駿河国田中城攻め、
天正12年(
1584年)の
小牧・長久手の戦い、天正18年(
1590年)の
小田原の役などで功績を挙げた。徳川家の関東移封にともない、伊豆下田城、5,000石の封地を賜った。秀吉の
朝鮮出兵の折には、忠次は老齢の身ながら
肥前国名護屋城にいた家康に謁して、もし徳川軍の朝鮮出陣あらば推して従軍せんことを請うたという。秀吉はこれを聞き、
「壮者の亀鑑」と称賛したという。