慶応3年(1867年)10月
大政奉還により政権を
朝廷へ返上した15代
将軍徳川慶喜は、新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、討幕派の
公家岩倉具視や
薩摩藩の
大久保利通・西郷隆盛らが主導した12月初旬の
王政復古の大号令とそれに続く
小御所会議によって自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。慶喜はいったん
大坂城に退くが、公議政体派の
山内容堂(前
土佐藩主)・
松平春嶽(前
越前藩主)・
徳川慶勝(前
尾張藩主)らの工作により、小御所会議の決定は骨抜きにされ、また慶喜も諸外国の公使に対して外交権の継続を宣言するなど、次第に列侯会議派の巻き返しが顕著となってきた。そこで西郷は、幕府側を挑発するという非常手段(作略)に出る。
江戸薩摩藩邸の
益満休之助・
伊牟田尚平に命じ、
相楽総三ら浪士を集めて江戸市中に放火・掠奪・暴行などを行わせる攪乱工作を開始。江戸市中警備の任にあった
庄内藩がこれに怒り、12月25日、薩摩藩および
佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。
この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日
鳥羽(
京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(詳細は
鳥羽・伏見の戦いを参照)。しかし戦局が劣勢となった上、
淀藩・
津藩などが寝返り、また薩摩・長州藩兵側に
錦旗が翻り、幕府軍は
朝敵となってしまう。慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦
開陽丸で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。
新政府は7日徳川慶喜追討令を発し
[『岩倉公実記』中、征討大号令宣布ノ事。]、10日には慶喜・
松平容保(
会津藩主、元
京都守護職)・
松平定敬(
桑名藩主、元
京都所司代)を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、
京都藩邸を没収するなどの処分を行った
[朝敵はその罪状の軽重によって5等級に区分されていた。すなわち第一等は徳川慶喜(前将軍)。第二等は鳥羽・伏見の戦いで敵対した主力である松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)。第三等は在阪して幕府軍に協力し、慶喜の江戸脱走に同行した者として、松平定昭(伊予松山藩主)、酒井忠惇(老中・姫路藩主)、板倉勝静(老中・備中松山藩主)。第四等は藩主が在阪中に家臣が発砲したが速やかに上京・謝罪した本庄宗武(宮津藩主)。第五等は藩主が在国中であったが在坂の家臣が発砲し、後に藩主が上京・謝罪した戸田氏共(大垣藩主)、松平頼聰(高松藩主)である。]。翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。また21日には外国事務総督
東久世通禧から諸外国
[フランス・イギリス・ドイツ・イタリア・オランダ・アメリカの6ヶ国。]の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、
軍事顧問の派遣などの援助を行わないよう要請した。これを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。