竹島一件 wikipedia|無料辞書
竹島一件(
竹嶋一件、たけしまいっけん)とは、
1692年(
元禄5年)から
1696年(元禄9年)1月まで日本と朝鮮との間で争われた
鬱陵島の領有問題。
江戸幕府の許可を得て鬱陵島に出漁した米子の大谷・村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから問題になり、長期間交渉の末、幕府が日本人の鬱陵島への渡航を禁止する事により決着した。当時の日本では、現在の鬱陵島は
竹島、
現在の竹島は松島と呼ばれていた。
<これ以下、当時の日本の名称に従い現在の
鬱陵島を「竹島」、現在の
竹島を「松島」と記述する。>
◆ 紛争開始以前の竹島
現在の鬱陵島にはかつては
于山国という国家があり、
高麗顕宗の時代に高麗領に編入されて移民が進められたが失敗した。
李朝の成立後、李朝はこの島が高麗再興派や
倭寇の根拠地となる事を恐れてこの島を立ち入り禁止とした。
1402年に作成された李朝の地図ではこの島に「鬱陵島」という名称を付けている。
一方、日本でもこの島は
磯竹島、または
竹島として知られており、
桃山時代に描かれたいくつかの日本地図には
隠岐と
朝鮮半島の間にこの島を描いたものが見受けられる。折りしも
豊臣秀吉の
朝鮮出兵で日本海沿岸住民のこの島への関心が高まるとこの島が無人島の状態になっている事を幸いにこの島に立ち入るようになり始めた。これに気づいた李朝の
東莱府が
1614年(
慶長19年)に
対馬藩に対して抗議を行った。対馬藩は竹島を日本領であると主張したとされているが、当時は両国とも内外に複雑な事情を有していたため、この時にはそれっきりとなった。
◆ 竹島での朝鮮人との遭遇に始まる領有権の交渉
鳥取県の大谷家に伝わる「竹嶋渡海由来記 抜書控」によると、
1618年(
元和4年)
伯耆米子(現・
鳥取県米子市)の商人、大谷、村川両家が幕府より竹島を拝領して渡海免許を受けており、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたて、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていた。大谷甚吉・村川市兵衛らは毎年交代で同島に赴いて、
鮑・
アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行い、鮑を幕府に献上していた。松島は竹島への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から松島も拝領し、
鳥取藩も毎年の渡海にあたっては、米や鉄砲の貸付をしていた。
◇ 竹島への渡海免許原文
この事件の発端は、
1692年(元禄5年)に竹島へ出漁した大谷、村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから始る。この時、竹島に朝鮮人が53人が来ていたが、日本側は21人の少数であったので争うことはしないで、早々に朝鮮人が作っていた串鮑のほか、笠、網頭巾、麹味噌を持ち帰って
鳥取藩に報告した。この処理をめぐって鳥取藩から対処方法を問われた
幕府は、すでに朝鮮人が竹島から退去したとすれば「何の構えも無之」と回答をして、特に問題にしなかった。
しかし、翌
1693年(元禄6年)4月にも40人の朝鮮人が来ていた。その中の2人を捕えて
米子に連行した。
安龍福(アンピンシャ)と朴於屯(パク・オドゥン)の二人で、米子で二か月にわたる取り調べの後、米子の
家老 荒尾修理より報告を受けた鳥取藩は、この事を
江戸に連絡して指示を仰ぐと共に、その指示があるまで安龍福ら2名の朝鮮人を米子の大谷九右衛門勝房方に留め、
足軽2名を付き添わせて警護に当たった。また幕府には竹島に朝鮮人が来ないよう朝鮮に申し入れをすることを要請した。幕府は鳥取藩にこの2名を長崎
奉行所に送るよう指示し、対朝鮮交渉の窓口であった
対馬藩の
宗氏には、長崎で二人を引き取らせ対馬経由で朝鮮へ引き渡すよう命じ、同時に、竹島は日本領であるから朝鮮人の出漁禁止の措置をとるよう朝鮮国に要請させた。
・5月26日:江戸より
飛脚が到着、安龍福らを長崎に護送するように指示がある。
・5月29日:米子を出発。
・6月 7日:山田兵衛門、平井甚右衛門を護送役として鳥府を出発。
・6月30日:長崎に到着。
・7月 1日:長崎奉行所に両名を引き渡す。
・8月14日:対馬からの使者・一宮官助左衛門に引き渡される。
・9月 3日:対馬に到着。
対馬藩主
宗義倫は、交渉の使者正官・
多田与左衛門の一行に帯同されて、
釜山に着き、安龍福ら両名を朝鮮政府に引き渡すと共に、竹島に対する朝鮮漁民の侵入を禁ずる旨を通告した。この時より両国の領土をめぐる外交交渉が本格的に始まった。(安龍福は幕府の竹島放棄決定後、再び日本にやって来て鬱陵島、子山島(
于山島)は朝鮮領であると訴える。)
この時、対馬藩が朝鮮王朝に宛てた文書には「本国竹島」と記して、日本領土の島であるという認識を示していた。また対馬藩の『
朝鮮通交大紀』にも、1693年に朝鮮人が「我隠州竹島に来り」と、竹島が幕府直轄領の隠岐に所属するということを表明している。
日本の申し入れに対し、朝鮮は日本との友好を重んじ、穏便に解決をはかる方針で交渉に臨んだ。しかし、交渉が長引く間に政権を掌握していた領議政の
権大運、左議政の
睦来善、右議政の
閔黯が何れも失脚し、領議政に
南九万、左議政に
朴世采、右議政に
尹趾完が任ぜられ交渉方針を強硬姿勢に転じた。
1695年、朝鮮は接慰官を釜山に派遣し、礼曹参判李?の名をもって9月12日に返書を対馬藩へ送り、宗氏の竹島日本領説を反駁させた。この書契では、竹島は鬱陵島のことで、鬱陵島は空島としているが時々役人を派遣して調査をしているとし、
東国輿地勝覧に照らしても、本土から良く見え、朝鮮住民がこの島でいろいろな物産を採っているとあり、朝鮮の領有は明らかであるとしている。
『粛宗実録』20年8月13日・『通航一覧』巻137