1366年には斯波高経・義将は佐々木道誉らとの確執で失脚し(
貞治の政変)、再び将軍の親裁となった。しかし翌年、将軍義詮の死の直前、四国平定や細川清氏討伐などで活躍していた
細川頼之が呼ばれて管領に就任する。以後は、政務は管領が統括し、足利将軍家の家政は政所へ移行するようになった。頼之は、幼い3代将軍
足利義満を補佐して幕府体制の安定化に努めた。九州には
今川了俊を派遣して南朝方の掃討を進め、吉野の南朝とは講和交渉を行いながらこれが不調に終わると
楠木正儀を味方につけて南朝を攻撃、南朝の抵抗はほぼ途絶えた。また、
応安の半済令を出し、内乱の中で行われてきた
半済を所領の折半として恒久化し武士の既得権を認める一方、有力荘園領主(皇室・摂関家・寺社)の一円支配地については除外して保護することで、双方の利害対立に一定の決着を図った。
応仁の乱後は将軍権力及び斯波・畠山両家は衰退し、細川氏が管領職を独占する。細川勝元の子
細川政元が
1493年の
明応の政変で将軍を廃立し、専制権力を確立した(
細川京兆家政権の成立)。だが、後継者を巡って政元が家臣に暗殺されると、細川氏は分裂して長期の抗争を繰り広げた。1500年代には
大内義興、
三好長慶、
六角定頼らが
管領代として幕府に君臨し管領職は形骸化していった。そして
1563年の
細川氏綱の死後、自然消滅の形で廃絶した。