所与の欲望体系のもとで
満足もしくは
効用を最大にするよう行為するという意味において、経済人は合理的であると考えられる。このような合理性が最も簡単に発揮されるのは、効用が量的に測定されうる場合である。ベンサムにあっては、快楽・苦痛の強度、持続性および確実性などといった主観的かつ個人的基準と、年齢、性別および教育などといった客観的かつ社会的基準とを設けて、効用を測定しようとする努力が行われていた。しかしながら効用の量的な測定可能性は、物欲からの効用を含め、心理学的にみて大きな疑義にさらされざるをえない。従って経済学者の多くは、効用の実体的内容について議論するのを避けて、選択の形式的秩序についてのみ考察するという方向にむかった。つまり、基数的可測性の前提の上に成立するものとしての
効用関数の概念ではなく、序数的可測性のみを前提したうえでなりたつ選択関数の概念にもとづいて、選択関数の値を最大にするよう行為するのが合理的だとみなしたのである。これが経済人の最も現代的な定義である(
限界効用理論の項目も参照して欲しい)。
しかしながら、効用理論から選択理論への推移は、一方では形式的厳密性という科学の要請を満たしはするが、他方では欲望形成が社会的、文化的および政治的な諸要因にも依存するものであるという点への配慮を欠いている。そのため、
近代経済学の方法的特徴である個人主義的もしくは要素論的な性格が強められ、その結果として、そのような方法を採用していない社会諸科学と近代経済学との交流が困難になっていった。加えて、たとえば経済政策について議論する場合のように、諸個人の選択結果についてなんらかの価値判断を下そうとすると、選択の合理性をめぐる形式的分析にとどまっていることができず、選択の意味内容についても議論しなければならなくなる。しかし、そうした議論のための新しい準備がない以上、近代経済学は物欲をめぐる快楽の最大化という古い経済人の想定に頼るほかない。すなわち、このような古い経済人の想定が、個人主義と物質主義に基づく近代経済学の新しい形式的分析を支えているといえる。