日露戦争中の
1904年(明治37年)、株売買を始めて大儲けをし成金の時代の庇護となった。中でも
鐘紡の株をめぐり、
神戸の
華僑・
呉錦堂との仕手勝負は東京取引所創業以来の凄まじい攻防戦だった。この年に
東京市日本橋区小網町に鈴木銀行東京支店が開設されたが、
1905年(明治38年)に
日比谷焼打事件で株は暴落したため、鈴木久五郎は東京支店の預金を使い株式の運用に当てた。当然鈴木銀行東京支店で取り付け騒ぎが起った。時は味方にしたのか株式市場の株価は上昇した。
だが1907年(明治40年)の大阪株式取引所は正月からバブルの反動がやってくる。株価は年初の775円から年末には92円まで88%暴落した。この下げ相場で買い方に回った鈴久は全財産を失い、
巣鴨の家賃4円50銭の借家に移り住む。ちなみに、この下げ相場で売り方の先頭に立ったのは
野村證券の創業者・
野村徳七で、このとき築いた資産がのちの野村財閥の基礎となった。