その後、河内湾の入り口は堆積した土砂で埋まり(天満砂州)、2世紀から3世紀にかけて、河内湾は完全に瀬戸内海から切り離されて草香江と呼ばれる湖となった(
河内湖)。
古墳時代に入ると、人々は水運の利便性を考えて瀬戸内海と河内湖の間に運河を掘削し、これを難波堀江(なにわのほりえ)と名付けた。河内湖の最奥部には草香津と呼ばれる港湾施設があり、瀬戸内海から難波堀江を通過して河内湖に入った船は、そのまま東進して草香津に向かった。また難波堀江の途中にも港湾施設が建設された。これが難波津である。
また難波津の東、上町台地の先端からは16棟もの倉庫群の遺構が発掘されており、難波津が当時の物流の一大拠点であったことが明らかになっている。なお、文献史料には「難波館(なにわのむろつみ)」と呼ばれる商館の存在も示されているが、こちらの遺構はいまだ発見されていない。
難波津が現在の
大阪市のどのあたりに位置していたのかは長年不明であったが、
1984年頃から難波津の位置についての論争が本格化し、いくつかの地点に絞り込まれている。ただいずれの説も決定的な根拠を欠いており、位置の確定には至っていない。有力なものとして
中央区三津寺町付近とする
千田稔の説と同じく中央区
高麗橋付近とする
日下雅義の説があり、近年では後者が有力視されている(参照)。